キック・アスのすすめ


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正義とは何か、この問いは現在に至るまで人類が解決できていない難問である。マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』が日本で脚光を浴びたことについて、未だ記憶に新しい方も多くいるのではないだろうか。先般のブームのようなものを除けば、残念ながら日本でこの問題が取り沙汰されることは少ないが、西欧哲学が土壌にある諸外国では日ごろから問われる問題だ。
“神”といった類のものを想定しない限り、この世の中には絶対など存在し得ない。だからこそ、本来共通善であるはずの正義は相対的なものにならざるを得ず、実に揺らぎやすいものとなる。自分の掲げる正義はただの偏見に過ぎないのではないか、何かを救うことが結果として何かを損なわせることに繋がってしまうのではないか、まともな神経を持っている人間であれば恐らくこういった問いかけを一度は自分に対して行うことになるだろう(だからこそ個人的な正義を一方的に押し付けてくる人間には注意しなくてはならない)。
さて、本題のキックアスだが、主人公のデイヴ・リゼウスキは自身のヒーローへの憧れと誰もヒーローにならないことに対する疑問から、自らヒーロー“キック・アス”として立ち上がる。当然、冒頭に挙げたような問題について悩むことは無く、というより何も考えずに行動した結果、初戦で不良に腹部を刺された上に車にもはねられ、重傷を負う。ただの阿呆である。その後何とか怪我から回復し、怪我の功名か末端神経麻痺(痛みを感じない)という能力を得るものの弱いのは変わらず。そんな中ギャングに復讐を誓うニコラス・ケイジ扮するビッグ・ダディとヒット・ガールの親子に出会うことで、キック・アスの人生は大きなうねりに巻き込まれていく。
実のところ、この映画の本当の主人公はキック・アスではなくヒット・ガールである。その圧倒的なまでに可愛い姿からは想像もつかないような汚い言葉と激しいアクションで敵を罵り虐殺していく。完全にモラルのようなものは飛び越えている。そしてそれが見るものを魅了し、また見終わった後に大きな問いを残すことになる。
アクションシーンもさることながら、映像自体も実に良い。独特なカメラワーク、暗い話にならないよう徹底して維持されている高い彩度。加えて絶妙なタイミングではさまれる音楽と、もう完璧である。一分の隙も無いエンターテイメント映画に仕上がっており、作中通奏低音のように流れる深遠なテーマからは芸術作品の趣きさえ感じることができる。『ダークナイト』がジョーカーという悪を描くことで視聴者に「正義とは何か」という問いを投げかけるのに対し、この『キックアス』ではヒットガールというヒーロー(ヒロイン)の姿をした少女を描くことで同じ問いを視聴者に投げかける。
このような世相の中で、娯楽映画を見るなんて不謹慎だと思う人がいるかもしれない。しかし私は今だからこそこの映画を見るべきだと強く訴えたい。特に印象深かった台詞を最後に引用する。



デイヴの親友トッドはヒットガールの活躍をテレビで目撃し、こう言う。

あの娘が大人になるまで俺の童貞は守る

間違えた。


無力感に打ちひしがれながら、それでも立ち上がろうとするキック・アスは自らにこう言い聞かせる。

“力が無ければ責任は伴わない”か?いや、それは違う

この映画を見て笑い、興奮し、涙し、癒され、悩み、勇気付けられる人が一人でも多く生まれることを切に願う。